菅原明朗(すがはらめいろう)

  

1897年(明治30年)3月20日~1988年(昭和63年)4月2日

作曲家、音楽指導者。

本名は吉治郎。兵庫県明石に生まれ、高等小学校卒業までを明石で過ごした。当時、菅原家代々の菩提寺西林寺には吹奏楽隊があり、この練習を聴いていたのがきっかけで音楽の道へ進むこととなった。従兄の中川十全宅から通った京都府立第二中学校(現京都府立鳥羽高校)に於いて小畠賢八郎にホルン、ソルフェージュを学んだ。1913年(大正2年)に上京して川端画学校に入学し、藤島武二に洋画を学ぶ。その傍ら京都の中学時代の友人野村光一と共に大田黒元雄邸に出入りし、堀内敬三等と知り合う。この頃作曲に志を持つようになる。

 

管弦楽、吹奏楽、宗教音楽、声楽、劇音楽、映画音楽、校歌のみならず、ピアノ、チェンバロ、ギター、マンドリン、ハーモニカなどの器楽曲まで多岐にわたり、400曲以上の作曲・編曲を残している。

 

大阪市音楽団、新交響楽団(現NHK交響楽団)、オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ、同志社大学マンドリンクラブ、関西マンドリン合奏団などの指揮・指導を行った功績は大きい。

永井荷風の台本による歌劇「葛飾情話」の作曲や、トーキー映画「藤十郎の恋」の音楽を手掛けたこと、フランス音楽を我が国に紹介した事で知られている。伊藤翁介、伊藤昇、小倉朗、古関裕而、須賀田磯太郎、服部正、深井史郎、吉田隆子等多くの弟子を育てた。

 

カンタータ「ヨハネの黙示録」作曲中に91歳で逝去。

明石西林寺に自分自身が建てた墓に妻・幸(こう)と共に眠る。

 

代表作 

「交響写景・明石海峡」(管弦楽)

「交響的幻影・イタリア」(管弦楽)

「白鳳之歌」(ピアノ)

「複協奏曲」(筝・尺八・管弦楽、久本玄智と共作)

「神仙調協奏曲」(宮城道雄と合作)

「聖体祭儀」(宗教音楽)

「藤十郎の恋」(映画音楽)

「葛飾情話」(歌劇)

「銀河」(ギター四重奏)

「7(セッテ)」(ピアノ、プレクトラム合奏版もあり)

「詩的交響楽・内燃機関」(プレクトラム合奏)

「丘の上」(慶応義塾大学・カレッジソング)等

 

主な著作

「楽器図説」 文芸春秋社/音楽之友社

「管弦楽法」 学藝社

「ピアノのための和声」 音楽之友社

「和声法要義」(リムスキー・コルサコフ著の訳) 音楽之友社

菅原明朗評論集「マエストロの肖像」(松下鈞編) 大空社 等

 

 

  1. 誕生日について、バッハと同じだと洒落て言っていたが、正しい日付は3月20日である。

  2. 菅原道真の子孫ではない。菅原道真が大宰府に流される時、旅籠であった明朗の祖先のもとに一行が宿泊。世話になったと、礼に菅原姓を貰ったものである。(旅籠・橋本屋)